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いつものユンボ

僕は考える

行動力の源泉について

サリーとアンの課題という自閉症を扱ったテストがある。

部屋の中にサリーとアンが居て、バスケットと箱、そしてパンがある。

サリーがパンバスケットに仕舞った後、サリーの見てないところでアンが

パンをバスケットから箱に隠してしまい、

戻って来たアンがパンを探すのにどこを見るか、と尋ねる課題だ。

 

三歳以下の子どもと自閉症を患った人間は、サリーは箱の中を探すと答える。

自分が箱の中にパンがあることを知っているからだ。

 

これが五歳くらいの子どもや自閉症ではない人間は、

サリーはパンが移動したことを知らないからバスケットを探すと答えられる。

自分を他人に置き換えて見ることが出来ない。

 

そして人間と同じように社会を持つチンパンジーにも出来ない。

 

この頃、色々とこれまで企画してきたことや、

遊びや何でもやってきたことを振り返る機会があって、

うまくいったことと頓挫したことにどんな違いがあったかを考えていた。

 

そうして分かったダメだった企画というのは、

「今世の中にこういうものが必要だ」と考えてしまうことだった。

つまり高度に発達した「他者に置き換えて考える機能」のためなんじゃないか。

 

自分が何をしたらいいか分からないという人間は多いが、

自分が何になればいいかよりも、

自分が誰になればいいかを考えているんじゃないだろうか。

 

他者に置き換える前に、自分のために行動することを中心として、

その向こうに他者を置かなくてはならないと思う。

 

人にアドバイスをするのは容易いが、

自分にアドバイスするのは難しいのと同じで、

他者に置き換えることを忘れて自分と向き合わなければ企画は頓挫すると思った。

 

ただ、自分のためと言っても享楽や肉体的快楽を中心に企画するという意味ではない。

最高級の肉を食い続ける、ということは継続でも企画でもない。

 

自分が抱える苦しみを解消したいと思うことを行動力の源泉にするのがいい。

 

真の意味で肉の味を共有することは出来ないが、

空腹から解放されるという気持ちを共有することは出来る。

 

どんな夢を持っていますか、は、

どんな苦しみを抱いていますか、と同じ質問だ。

 

怪我というのは、見た目ほど痛くない場合もあるし、

猛烈に痛いのに大した傷に見えない場合もある。

見てみると余計に痛んで不安になる傷もあれば、

見ることでようやく安心出来る傷もある。

 

だから知らぬ間に行動していたという場合もあるが、

企画をたてるなら傷を見なきゃ頓挫するな、と思った。

 

みんなにこんな物が必要だとか、

こんな物が売れるというのも悪くはないが、

継続の行動はそういうところしかないんじゃないだろうか。

 

そして何よりも誇りを持って取り組めるかどうか。