いつものユンボ

僕は考える

覇穹 封神演義一話の感想 演出が杜撰

新しくリメイクされることになったアニメ封神演義

原作漫画も旧アニメも遠い昔に観たので、本当に大枠しか覚えておらず、真っ新な気持ちで楽しめるだろうと思って試聴しました第一話。なんとも酷い出来です。

 

ネットで感想を調べてみると、超高速封神演義だのソードマスター太公望だのと散々に言われておりますが、僕はテンポよりも単純に構成が気になりました。

アニメは開始同時に主人公である太公望と聞仲が決闘しているシーンから始まります。

オープニングを挟みまして、時間を巻き戻してスタートします。

これは聞仲との決闘が今回のアニメ化の終点、あるいは終り間近であることを示しているのだろうと思いますが、今回の決闘シーンを見せることに何の意味があるんでしょうか。

確かに終りから始まる物語は多々あります。アニメではなく映画の例えで恐縮ですが、マシニスト(死体を遺棄しようとしている主人公)、メガマインド(上空から落下して今まさに死にかけている主人公)、ポリスストーリー(自らのこめかみに拳銃を発砲する主人公)など、いずれも主に「なぜこんな状況にあるのか」に対する好奇心を煽る意図によって作られているんだろうと思います。

ところが、この太公望と聞仲が決闘しているシーン。台詞からお互いの主張のために戦っていることが分かってしまうため、二人は敵対している、という情報しか伝わりません。尺が勿体無いと思います。

 

冒頭でそんなことを考えながら、まず一話を通して観ました。

その後、原作を読み返し、その相違点、とりわけ演出の変更などを再考してみますと、やはり全体として杜撰だと感じるところが多かったのです。

 

意図の分からない決闘シーン、OPを経て、アニメでは仙人界のパンアップから始まります。続いて玉虚宮へのカットに代わり、原作をなぞって「元始天尊さまが一番弟子太公望」と主人公が名乗り、元始天尊から「修業は捗っておるか」と尋ねられる流れになりますが、太公望は「も、もちろん捗っております」と言葉に詰まります。

その返答に対して元始天尊が噓吐け! と蟷螂拳をお見舞いして突っ込むのですが、これは非常に原作の意図、また演出を完全に無視しています。

原作では、このシーンの前に太公望が真面目に修業(瞑想)に励んでいるであろう場面を見開き1ページ内で描いています。これは太公望が主人公であることを示唆しながら、その全身のデザイン、またキャラクター性を提示するための重要な場面です。

この1ページがあることによって、太公望が真面目で厳かな雰囲気をしている→元始天尊に呼ばれて修業具合を聞かれる→実は不真面目であった、という流れになり、まさに主人公紹介のための場面となっていると言えるでしょう。また、緊張と緩和によって蟷螂拳を笑いにもしています。(微笑ましい程度ではありますが)

原作ではこれによって真面目と不真面目のバランス、どっち付かずな太公望というキャラクターを即座に見せることに成功していますが、アニメでは前半1ページをカットしてしまったがために、ただ呼ばれていきなり怒られているだけにしか映りません。今の時代には少しレベルの落ちたギャグも、尚更すべります。

尺の関係があってカットするにしても、一連の演出を細切れにしてしまうのは原作の意図を理解していない、そう思われても仕方が無いでしょう。

単に短くしたかったのなら、蟷螂拳のくだりごと切ってしまってもよいハズです。

 

アニメではその後、真面目に修業しろと諭される太公望が、人間界の現状を憂い、修業どころではないと語りますが、ここでも演出上の不手際があります。

原作の冒頭は聞仲との決闘シーンではなく、吹き出しによるこの世界の説明、そして妲己が王を傀儡として暗君に座しているところから始まります。

これらの説明によって太公望元始天尊に語る人間界の問題とストレスなく繋がりますが、アニメではこの段階でまだ妲己の名は出ず、聞仲と喧嘩しかしてません。太公望の口説のみによって「人間界が危ない」としか示されず、またそもそもこの世界が人間界と仙人界に分かれていると説明する前なので、会話に入っていけません。

 

もちろん何から何まで順を追って説明する必要はありません。視聴者に理解と解釈とを委ねる方法はありますが、しかしそれにはエウレカが必要でしょう。

エウレカ、つまり気付きや発見に対する喜びです。エウレカを得るためには、まず謎の設置が必要です。この「人間界の惨状を考えれば修業している場合ではない」という場面において「説明しない場面説明」を描くならば、テンポを遅くする必要があります。

真面目にやれ、と元始天尊から言われた後、

「お言葉ですが、我々はこのままでよいのでしょうか」という台詞が入ります。

この時、この言葉の意味はなんだ、なぜ真面目に修業しないのか、という疑問が視聴者に生まれるので、これを強調することで納得する喜びを得られます。

ようは「このままでよいのでしょうか」と台詞が入る前に陽気なBGMを止め、太公望の台詞を受けた元始天尊が言葉を噤んだり、「どういう意味だ」と聞き返すカットを描くことによって、そこから原作冒頭で描かれた世界観説明の後の、妲己の悪行を絵と共に描けるのではないか、と思います。一拍置くことによって、視聴者の「どういう意味だろう」という疑問の発生と答え合せが作られ、物語に参加しやすくなるのではないでしょうか。

また、やはりこの場面、人間界を危惧する太公望の場面を、陽気なBGMおよび「~中略~それをほぉ↑っておいて、天上でぬくぬく修業しておいてよいのですかぁ↑」というおちゃらけた声の演技にさせたのは、太公望の真意を考えた時には全く功を奏しない演出であるでしょう。

この台詞の後に「それを思うと修業に身が入らずに眠ってしまう」といって太公望はふざけますが、それが彼のバランスであり、照れ隠しのようなもので、前述の演出不備と同じ系統の間違い、太公望というキャラクターの曲解が起きていると思います。

またこの直前に人間と仙人の違いを骨の違いによって説明する場面がありますが、これは情報を出す手順として全く間違っているのではないでしょうか。

「人間と仙人は違う」ということを明確に謎として設置せず、ふわふわとしたまま来るので、「ああ、そういう考え方でいい、のか?」というまたしてもふわふわした解答と納得になり、何の発見の喜びもありません。

原作において初っ端に吹き出しで人間界、仙人界、そして人間と仙人が隔てて暮らしていることを説明したのは、情報は情報、演出は演出として分けているからでしょう。

あやふやな謎、推論、そして明確な納得の無いあやふやな解答が、試聴にストレスを感じさせています。

笑い話が落ちよりも落ちに至るまでの道程が重要であるように、どこが落ちだったのか、というのは情報や演出においても、ハッキリしないのは拙いと思います。

 

さてその後、不真面目な太公望を仙人にするために元始天尊が封神の書を与えます。

ここでも演出上の不手際が起きています。

元始天尊が「儂とてやりたい放題の妲己を放置しておくつもりはない」と語りますが、まだ妲己の悪行を一つも提示していないため、話に入っていけません。そして「数年前、この問題をどうするか話し合った」と語りながら、絵でもって話し合ったメンバーの顔を出しますが、顔を出した彼らの名前も立場も明示していないので理解が追い着きません。原作を全て読んだ僕も、今は一巻以外読み返しておらず、細かく覚えて無いので、顔を出された人の名前も分かりません。

「スゥアン!」みたいな音のSEと共に顔を出されても、何も響いてきません。

SEを付けた人はどんな気持ちだったんでしょう。

 

そして人間界を荒らす仙人たちを人間界から追い払い、尚且つ仙人界へ呼び戻さないため、新たに神界を作ったと説明がされます。しかし、ここの説明は、「なぜ人間界の仙人たちを戻さなければならないか」という問いへの説得力がなければ、ただのルール説明に陥ってしまいます。

ですが、いまだに妲己たちの悪行は実感を持って描かれていません。

この段階ではまだ他人事に過ぎないので、重要性が伝わっておりません。

 

その欠点を抱えたままアニメは進行し、人間界を救うため、封神の書に載っている仙人たちを倒せと太公望は命じられ、「しかし殺しは御法度」と言って修業を断ります。

そこへ突然白鶴童子が飛んで来ます。それ自体に不満はありません。説明役が突然やって来るのはよくあることです。しかし、突然現われたキャラクターであるなら、初めましての演出が必要というものです。原作では、読者が白鶴童子と初対面の時、太公望によってその名前を呼ばれました。読者にとってはこれが初めましての挨拶です。また、原作は白鶴童子が太公望を呼ぶところから始まっていますので、この二名のキャラクターが一緒に自己紹介をするくだりになっていました。AがBを呼び、BがAを呼ぶことによって読者への紹介を終える。Aがいきなり「A、やって来ました」というような直接的な初めましての演出は、如何なものでしょうか。

 

一話を観て原作を読み返したのだから、このまま丸々一話レビューしようと思ったのですが、まだアニメ開始5分にもなってません。オープニングを除くと実質4分以下です。なのに3500字以上書いてます。いけません。このままではたった一話について語るのに2万字打つことになります。それはしんどいので、もうこのへんにしておきましょう。

 アベマの十秒送り、十秒戻しをアホほど使いました。疲れました。

 

あっ。

DTVのポプテピピックの番組説明、「どうあがいても、クン。」(原文ママ)に笑いました。本編は笑いませんでしたし、なぜマールがシャイニングを、と思いましたが、「二話はどんな風にクソなんだろう」と思うと、次も観てしまうだろうと思います。

笑えなくてもいいんです。如何にクソであり続けるか。二話で再放送はやらずに、新しいクソを見せて欲しいです。しかし、二話で再放送をやっても、それはやっぱりクソだなと思うので、つまり、クソだと思います。どうあがいても、クンです。