いつものユンボ

僕は考える

ポプテピピックの素晴らしい点

観てますポプテピピック

第一話を観た時は、「なんてクソだ。こんなクソがあって許されるのか」と思ったものですが、二話を観てびっくり。「なんてクソだ。こんなクソがあって許されるのか」と思ったものです。

 

全然変わってないじゃないか、と思われる方には是非観て頂きたい。

ポプテピピックはクソです。ですが、全力を投じられたクソです。

なぜこのクソはこんなにも丁寧に作られているのか。

それはこのアニメがクソだからに違いありません。

 

考えてもみてください。クリエイターたちは日々良いモノを作ろうと切磋琢磨しているハズです。しかし「良さ」において多数から共感を得るのは難しく、どんなに心血を注いだ物も、十全に万人を喜ばせることなど不可能なのです。

百人いて、百人が笑うネタなんて存在しない。

と言ったのはニューヨーカー紙のカートゥーンを採用している編集者です。数十年に及ぶ編集業から出た言葉は真実と言ってよいでしょう。

 

なぜ「良いもの」の共感を掴むことが難しいのか。それは個人の信条や、過去の経験、美意識といった、人生において醸成されて出来るものだからでしょう。

良いものを目指そうとして、クリエイターたちは流行を考慮し、自分の美意識に問い掛け、過去に問い掛けては自問自答するのでしょうが、そこへきてポプテピピックです。

これは初めから良いものを目指そうとしていません。

クリエイターに向かって発せられた注文も、おそらく「これはクソです。This is shit. and……This is it.」であったに違いありません。

そうしたとき、クリエイターが思うのは「なるほど、これはクソなのか。ならばせめて人前に出せるクソにしてあげよう。クソには違いないが」であったことだろうと思います。するとどうでしょう。クリエイターたちは我が力、取り分け技術力を総動員させて、このクソを作り上げたのです。流行も良さも関係ありません。そこにあるのは無尽蔵の技術力。そしてクソ。これほどクリエイターを解放させるコンテンツがあるでしょうか。

 

しかしなぜ、良さに共通認識を覚えられないのに、人はポプテピピックをクソと言い切れるのでしょう。

ご承知の通り、人間の原始的な感情は、最も原始的な脳の扁桃体にある感情、つまり恐怖です。これがなければ危機的状況を回避出来ず、生命として生き残れません。そもそも人間、生物は悪いものを見分けられるように出来ているのです。悪いものから遠ざかり、先端へと伸びて枝分かれしたものが「良い」とも考えられます。

例えば、蒸し暑い夜を良いと思う人は少ないでしょう。ほとんどが悪いと思うハズです。しかし、リゾートビーチでゆったり過ごす、が蒸し暑い夜で得た「悪い」と同じくらい「良い」を得るとは限りません。外に出たくねぇと思う人もあれば、海より山だ、という人もいるのです。私は山は嫌いです。

犯罪を抑止しようというのも、それだけ悪事に対する共通認識が持ちやすいからでしょう。

 

ポプテピピックは多くの人にとってクソです。なぜなら、それが悪い部類のものだからです。そしてこれが何より、ポプテピピックの素晴らしい点です。

 

情報化社会において、人々の意識は断絶した時代。政治で揉め、肌の色で揉め、男女で揉め、個々に衝突する時代。そこにおいてポプテピピックはクソとして共通に認識され、人々の心に集団帰属意識という安らぎを与えています。

昨年、これと同じ現象が別のアニメでありました。

 

けものフレンズです。

 

けものフレンズが成し得た最も素晴らしいものは、私は「有無を言わせぬ同意」であったろうと思います。コンテンツそのものが持つひたすらな優しさに、だれも否定しようとしない。これによって試聴する私たちも、このコンテンツを否定することを「筋違いだ」として排斥しました。もちろん強制されたものではなく、二次的な作用です。

けもフレはとにかく否定しない、合わないなら観ない、という風潮を「みんな得意なことは違うから」で作り上げました。

ポプテピピックは「さてはアンチだなオメー」で、同様にポプテピピックを論理立てて否定する者たちを排斥したことを考えると、けものフレンズのカウンターとして巧みに作られたことが分かる、ような気がします。

 

以上です。

封神演義二話の感想は書きません。否定だけするのは疲れます。