いつものユンボ

僕は考える

「女性だけの街」「あたしおかあさんだから」について。ジェンダーを語ることの難しさ

この頃、ミソジニー女性嫌悪)、ミサンドリー(男性嫌悪)、LGBTレズビアン・ゲイ・バイ・トランスジェンダーを表わす言葉)など、多岐に渡る性の議題をネット上でよく見かける。この性の議題は、私の感覚的に、俗に言う「炎上」が一番起きやすい題でもあると思う。

その原因について考えてみた。

 

炎上の理由。それはこのジェンダーに置ける始発点と終着点が、同じ議論をする者同士で共通認識を持っていないことにあるのではないか。

 

ジェンダー以外の例で比較して言えば、政治学や経済学で取り上げられる功利主義というものがある。

最大多数の最大幸福、列車に乗った数人を事故から助けるために一人を殺すのは善か悪かという思考実験などで語られるその主義は、功利というよりは「多量の幸福のため」という考えで、大多数が利益を得られることが社会の理想であると主張するものだ。その際に浮上する問題、取り分け倫理において反証を出す者がおり、

功利主義→←反功利主義、という図が出来あがる。

つまりそれは、利益優先 対 道徳優先の形であるとも言え、その議論の中で、「どちらが真に人間社会にとって良いか」という問いへ向かっている。

 そしてあらゆる主義主張と同じく、極端に到ることはあまりない。

 

ところがことジェンダーの問題となると、ネット上では個々のケースを取り上げ、そこにある問題について、主義思想、個人的な好悪の念、その両方を持って語り出し、そもそも中心は何であるか、ということから遠ざかっているような気がする。

 

上記にも書いたように、主義思想というのは、要は人間社会に関する理想の形を追い求める心から発するものだ。

 

であれば、まずは個人的な好き嫌いを脇に置き、性に対する扱いがどうあればよいのかを議論すべきだろう。もちろんだからと言って完璧な答えが出る訳ではない。

功利主義におけるメリットもデメリットも、結論を出さずに数百年に渡って議論されてきた。そのなかで語られたことが、個々人が自身の生をどう受け入れるかに大きく貢献してきたのだろうと思う。

 

私はジェンダーを語ることの難しさ、また広く議論されるに関わらず「炎上」してしまうことに物悲しさを覚える。

それはこの議論が、他の主義思想を議論するときに得られる「個人に与える考え方への寄与」が、個人的主観によって阻害されているからではないかと考えた。

 

ジェンダーを語る際、第一に平等を旨とする者がいる。

その者は平等主義である。となると、全て平等にすべきなのか、平等にすることが本当に人間社会の理想なのか、突き詰めれば職業の自由もなくなるがどうするか、という考えでもって語る必要がある。そこから社会主義共産主義等とも領域を重ねてくる。

多くはこの「どこまで平等にするか」にジェンダーの根があると私は思うが、それを性別で線引きすると、平等とは何か、についての議論から遠く離れてしまう。

 

極端な平等は一切の自由を奪われた状態で、極端な不平等とは欲望にだけ忠実に生きることであり、前者は共産圏の国の綻びから、後者はそもそも人間が社会的動物であるという点から、どちらも現実としては難しい。

 

その両端をどのようにして語り、近付け、遠ざけるかについて私は語って欲しいと思う。ミサンドリーミソジニーで終わらせてしまっては勿体無い。

嫌悪によっては議論も纏まりようがないし、何より異性に対する理解を阻むような行為であるとも思え、ジェンダーを怒りでもって語る人間は、その人間自身が異なる性および性的嗜好への歩み寄りを破壊しているようにも感じる。なかにはそのような破滅主義者も居るだろうが。

 

性による差別をどう是正し、またどのように平等に扱い、どの程度平等に扱うかがジェンダーの一つの本筋であり、平等→←反平等という形でも持って議論されることが望ましいだろうと私は思う。つまり始発点は「こんな不平等と差別がある」からで、「どこまで平等にするか、その上で現実としてやれることは何か」が終着点である。

 

このことを念頭において置かなければ、ジャンダー論を語れば語るだけ、不平等を感じる原因、怒りの原因が分からずに人を恨む、言うなれば「不透明な憎しみ」を増加させるのではないかと危惧している。それは語る本人そのものを蝕むと思う。

 

ここまでの具体例として、

『女性だけの街』ヲ作ろう

というtogetterでの論争について触れる。

事の発端はある方が「女性専用」などの文字を見た時に安心すると呟いたことで、それに対し女性専用の街があれば良いと答えた人が居た、という流れだ。

その会話にどんな反応があったかは上記のリンクを見て頂ければ早いが、個人への攻撃、異性憎しが散見される。

 

だが、一度これを平等不平等の問題として捉えたらどうだろう。

 

女性だけの街、これは極端な平等である。(上記ではインフラは男性に任せるなどの発言等もあったが、ここでは一旦置いておく)

さきほど少し触れたように、極端な平等とは綻びが出るものである。

しかし極端を提示することは議論の題材としては悪くない。

その綻びを語り、現実の不平等がどのようにあって、最適な対処は何かへ突き詰めていくことが出来れば、それに越したことはない。

そうすることで、今現在の本当の形が見えてくる。

 

この女性だけの街に関して言えば、リンクの中でもあったが、実際にそのような街や村は世界に幾つかある。しかし、そのように極端な平等へ走ったのは、極端な不平等が存在したからである。例えば、

ほぼ女性だけの村、男性を求む。ただし、村の規則を守れる者のみ! – ブラジルの今をお届け - MEGABRASIL

以上のリンクのように、目に余る不平等から脱する方法として、彼女たちは極端な平等へ「行き着くしかなかった」のだ。

現実の現在に、日本に女性だけの村が無いのであれば、女性だけの街を作り、それに伴う苦労をするほど、日本の女性の人権が脅かされているという現状も緊急性もないと考えるのが妥当だろう。

まずその極端へ行くより前に、異性が共に暮らすこの街で、言葉によって問題を解決していこうと考えた方が健全ではないだろうか。

これによって議題に上った「日本の女性は恐怖を感じている」がどの程度真実であって、実際の被害者がどれくらいいて、それが「社会問題として」浮上するかどうかを議論の上で考えることが出来る。

もしその実態が、 夜道が怖い、という個人の問題であるとするならば、防犯ベルを持ってみてはどうか、という提案もあるし、その恐怖が幻想である可能性だってあるのだから、個別の心のケアを考えてみてもいいだろう。真に社会問題として存在すると分かったならば、それ相応の対処が必要だ。

 

もし、かの発言が「ただ単に愚痴を言って賛同して貰いたかっただけ」、というのであれば、広く人に見られるツールで愚痴を溢すのは良いことは言えないと教え決着を付けることも出来る。愚痴が悪いと言っているのではなく、愚痴の楽しみ方を間違っているのである。愚痴は共同体の結束を強める上で重要だが、批評と愚痴とを間違えると痛い目を見る。(批評ですら痛い目を見るが)

そこから先はネットリテラシーの問題であり、ITのツールとしての問題、また教育の分野に移り変わる。

 

 社会問題の規模で不平等が存在しているかどうか、これについて目を凝らせば、その中に性別の枠組みを入れることが可能で、平等→←反平等として考えられるのではないだろうか。いかにして社会正義としての平等を成すかについて語る限り、異性対立として議論はされず、憎しみを捨てて物を考えられると思っている。

性を意識して議論を始めた途端、人は知らず知らずに自分をカテゴリーに分け、自分とは違うモノを攻撃してしまう。これは動物的本能である。赤ん坊は自分の好きなオモチャを同じく好きな相手に好感を得る。

肌の色や生まれで差別をしないというのは、人間の理性が生みだしたものだ。

その両者は確かに存在する。だからこそ考えるときには「分けて考える」ことが重要なのだと思う。

 

男女がどのように違うか、というのも上の議題とはまた別の議題であって、平等の議題に男女の相違の議題を引っ付けて語ると、たちまち混乱してしまう。

今、私たちは何について議論しているのか。起きた問題よりも、問題の原因から語ることが大事なのではないだろうか。

 

 

また、上記に加え、もう一つジェンダーを語る上で重要な考え方がある。

ステレオタイプだ。

先入観や思い込みによって人を判断し、偏見を持って「差別する」ことである。

 

この先入観がなぜ問題となるか。

例として

『あたしおかあさんだから』

を挙げる。

 

さきほどの女性だけの街は、女性発で炎上した案件である。

こちらは男性から発されて炎上した案件だ。

 

これは歌の歌詞が問題として取り上げられたもので、その内容は全編において「私は母親だから~」という作られかたをしている。

問題だと言う人たちは、「ステレオタイプを助長する」ことを問題視しているのだろう。ジェンダーはこの問題で何度も燃えている。

 

しかし、私はこの問題も個々の物を取り上げていてはどうしようも無いと思っている。

語るべきは「なぜステレオタイプはいけないのか」また、「悪いとすれば、どのように解決するか」だろう。

私が考えるに、ステレオタイプが悪いのは、ある分類に対し特定の態度を強要されること、そしてやりたくも無いのに自分自身がそうしなければと思い込むこと、の二つである。つまり、大元で言えば悪しきは「他者、そして自分自身に強要されること」である。だからこそ「ステレオタイプを助長する」という問題なのだ。

そしてその分類によく性別が含まれるため、ジェンダー論として取り上げられる。

 

ここで改めて問題となった歌詞の一部を転載する。

 

一人暮らししてたの おかあさんになるまえ
ヒールはいて ネイルして
立派に働けるって 強がってた

今は爪きるわ 子供と遊ぶため
走れる服着るの パートいくから
あたし おかあさんだから

あたし おかあさんだから
眠いまま朝5時に起きるの
あたし おかあさんだから
大好きなおかずあげるの
あたし おかあさんだから
新幹線の名前覚えるの
あたし おかあさんだから
あたしよりあなたの事ばかり

 

もし、これを読んだ人がかつて、あるいは現在子どもを育てていて、その際に母親なんだからやらなくては、と思いながらひたすら苦しんだのなら、悪文である。

もし、これを読んだ人がかつて、あるいは現在子どもを育てていて、「同じような苦労」を「楽しんで」いたなら、懐かしくも思い、喜びも得られる文である。これだけ大変なんだから感謝してほしい、と思う母親にも同様である。

そんな母親像は古い、と考える人にとっては何の影響もない。

しかし好悪どちらにも捉えられる限り、作者に悪意があったかどうかを推し量ることは出来ない。

いや、創作物は常に両面を持っている。百人中百人が笑うネタなど存在しない。

だが少なくとも前者の捉えられ方をする可能性があり、そのことについて「それはそれで構わない。それ以上に意義がある」と想像力を働かせて踏み込めなかったのは、作者の力不足だろう。

 

ステレオタイプの問題は、社会的な側面より個人的な側面の方が色濃い。

しかし個々の問題は個々に解決するしかない。

集団としての偏見ならば変えようがある。罰則や仕組みによって社会は変わるからだ。

 

だが個人を変えることは難しい。

人間は原始的体験によって、各々が違った欲望を持っている。

その欲望に沿ったことでなければ、身に付かないものだ。

 

 

上記二つから考えるに、私はジェンダーを語ることの難しさを、「社会的問題」と「個人的問題」を綯い交ぜにしてしまうことにあると思った。

ジェンダーに関する諸問題について語るときは、まず個人的問題かどうかを分けることが重要ではないだろうか。